ただ、そこにある。
ただただ、そこにある。
当たり前のようにそこにあるが、そこにあり続けることの難しさ。
なんでも手に入る現代のなかで、その場所はある意味、なにもない。
確かに物理的にはなにもないかもしれないが、心を穏やかにしてくれる。
確かに物理的にはなにもないかもしれないが、沢山の物に囲まれた日常から解放してくれる。
あるところでは包み込まれるような心地よさ。
あるところでは湧き出るような高揚感。
空気の流れも街のそれとは大きく異なり、いつまでも居られる場所。
私自身、特段宗教に熱心なわけではなく、過去の身内の不幸の時に宗派を意識したくらいの程度。
過去に法要などで訪れた時も、特別な感覚を得ることはなかった。
しかし一昨年夏の鎌倉を訪れた時は違い、いや変化しているとはいえ、それは宗教の場としてではなく、それは「美術と癒し」の場所として。
近年のお気に入りの場所を訪れると「廃仏毀釈」について触れているところがある。
宗教に疎く、ただ美術と癒しの場所として気に入っている私としては、廃仏毀釈運動で失われてしまった様々な遺産について「勿体無いことを」「なぜ壊した」と。
廃仏毀釈は学生の時に歴史の授業で触れ、「明治新政府が全国の寺院を破壊した」程度の理解しかなかったが、なぜ寺院やそこにあった財を破壊したのか?、なぜそこに至ったのか?を知りたくてこの本を手に取ってみた。
「仏教抹殺」
なかなか強烈なタイトルだが、著者の鵜飼 秀徳 氏が廃仏毀釈のことについて丹念に調査し、そこに至った背景と全国各地でどのようなことが行われたか、丁寧に書いてある。
無学な私は「廃仏毀釈は明治新政府が指示をして寺院を破壊した」と思っていたが、江戸時代末期までの寺院と神社との関係や幕末から明治維新の政治背景が絡み、明治新政府主導ではなく各地のボトムアップ的な運動として廃仏毀釈が実行されたのだな、と。
寺院にまつわる負のエピソードを知りたくて本書を手に取ってみたが、読後はそのエピソードよりも抑圧されることで鬱積したエネルギーが、それが解き放たれたときに一気に反対側へ振り子が振れる人間心理と行動の恐ろしさの方が強かった。
この極端な振れ幅は日本人だからなのか?
それとも人とはみなそのような心理と行動に振れてしまうものなのか?
ただただ、そこにある。
当たり前のようにそこにあるが、そこにあり続けることの難しさ。
なんでも手に入る現代のなかで、その場所はある意味、なにもない。
確かに物理的にはなにもないかもしれないが、心を穏やかにしてくれる。
確かに物理的にはなにもないかもしれないが、沢山の物に囲まれた日常から解放してくれる。
あるところでは包み込まれるような心地よさ。
あるところでは湧き出るような高揚感。
空気の流れも街のそれとは大きく異なり、いつまでも居られる場所。
私自身、特段宗教に熱心なわけではなく、過去の身内の不幸の時に宗派を意識したくらいの程度。
過去に法要などで訪れた時も、特別な感覚を得ることはなかった。
しかし一昨年夏の鎌倉を訪れた時は違い、いや変化しているとはいえ、それは宗教の場としてではなく、それは「美術と癒し」の場所として。
近年のお気に入りの場所を訪れると「廃仏毀釈」について触れているところがある。
宗教に疎く、ただ美術と癒しの場所として気に入っている私としては、廃仏毀釈運動で失われてしまった様々な遺産について「勿体無いことを」「なぜ壊した」と。
廃仏毀釈は学生の時に歴史の授業で触れ、「明治新政府が全国の寺院を破壊した」程度の理解しかなかったが、なぜ寺院やそこにあった財を破壊したのか?、なぜそこに至ったのか?を知りたくてこの本を手に取ってみた。
「仏教抹殺」
なかなか強烈なタイトルだが、著者の鵜飼 秀徳 氏が廃仏毀釈のことについて丹念に調査し、そこに至った背景と全国各地でどのようなことが行われたか、丁寧に書いてある。
無学な私は「廃仏毀釈は明治新政府が指示をして寺院を破壊した」と思っていたが、江戸時代末期までの寺院と神社との関係や幕末から明治維新の政治背景が絡み、明治新政府主導ではなく各地のボトムアップ的な運動として廃仏毀釈が実行されたのだな、と。
寺院にまつわる負のエピソードを知りたくて本書を手に取ってみたが、読後はそのエピソードよりも抑圧されることで鬱積したエネルギーが、それが解き放たれたときに一気に反対側へ振り子が振れる人間心理と行動の恐ろしさの方が強かった。
この極端な振れ幅は日本人だからなのか?
それとも人とはみなそのような心理と行動に振れてしまうものなのか?